Chapter.4 - 3

「いたんだっていうことは、だめになったわけだ」
「うん。いや、どうかな。まだ好きだからなあ。いや、わからないな。そういう感じじゃないかもな」
 横目でヤッチを見れば、缶コーヒーを飲みながら、過ぎていく景色を遠い視線で眺めていた。
「お互いに嫌いになって別れたわけじゃないから。って、朝からこんな会話おかしいね」
「別におかしくはないよ」
 たしかに爽やかな朝の会話としてはふさわしくないとは思いつつも、ぼくはいった。


 もうすぐミカコさんの商店が見えてくる、というときだった。彼女もう、だめなんだよねとヤッチがいったのだ。
「だめってなにがさ」
 神社の向こうに、商店が見えてくる。そしてヤッチがつぶやいた。
「死ぬかもしれないんだ」
 商店はすぐそこなのに、思わずブレーキを踏んでしまった。
「ディープだから、やめておくよ」
「いや、いいよ」
 ヤッチは缶コーヒーを飲み干す。札幌まで遊びに行ったのではなく、彼女に会いに行っていたという。
「高校も札幌だったからさ。そのときから付き合ってて、大学は別々だったけど、ちゃんと続いてたし、もうほかのひととかはちょっとないなと思ってて。こういうことって他人ごとだったんだけどな。驚くよほんと」


 しばらくは札幌の塾で講師のバイトをしていたけれど、入退院を繰り返す彼女が、別れて友達になろうといいだした。友達だったら、それほど気に病むことでもない。自分のために、みたいなことをされるのは辛い。だから、好きなように好きな場所に行けばいい。電話もメールもできるのだから、私を重荷にしないでくれ。重荷になるのが一番辛いと、泣くのではなく、笑顔でいわれたといういきさつを、かいつまんでヤッチが話す。病名は訊けなかったが、よくない病気であることはわかる。


 ぼくがエンジンをきって、たばこに火をつけると、弱々しい笑みを浮かべたヤッチがいった。
「飲み屋の会話だろ、これ」
「うん。ちょっと酒がないとっていうか。ごめん」
「いや、全然。走るのすっごい早くてさ。同じ陸上部だったんだよ。彼女は結構いいせんまでいってて。その足もずいぶん痩せたな」
 山本喜代子のマンガを好んでいて、連載中に喜代子が死んだときには、検査入院していたとヤッチが話す。そのときは冗談で、死んだら会えるかな、会えたら続きが読めるのにと笑っていたけれど、冗談ではすまない状況になったのだ。


 母のことを思い出してしまう。


 胸にしこりがあって気になると、ある夜、母が突然きりだした。家族で夕御飯を食べているときだ。ぼくも兄もテレビに夢中で、床に寝転がった父が、病院に行けばいいと欠伸をしながらいう。


 もともと母は、風邪をひいただけでも大騒ぎするたちで、またその類だろうとみんな思っていたのだ。それが、診療所へ行ったあとに、稚内の病院をすぐに紹介されることになって、旅行気分で家族でフェリーに乗り、ぼくと兄がデパートで遊んでいる間、父は母を連れて病院へ向かう。旅館へ戻ったぼくと兄は、買ったマンガを交互に読んだり、眠ったりして過ごしながら、両親の帰りを待った。これっぽっちも、ひどいことなど想像してはいなかったのだ。ただ、中学生の兄は違ったのかもしれない。いつもはくだらない冗談を飛ばしてふざけたりするくせに、その日はやけに静かだったからだ。


 母はすぐに入院することになった。なんでもないと父はいって、デパートで日用品や新しいパジャマを買い、ぼくらは一緒に病院へ向かう。六人部屋の窓際が母のベッドで、面倒くさそうに母は身支度を整えていた。その側で、たどたどしく父が動き回り、ぼくはその光景に飽きて、廊下に出て病院の消毒のにおいをかぎ、歩き回る看護婦や患者をただ見ていた。


 ぼくは小さかったので、母の病名は知らされなかったが、父は兄にはいったようだ。手術しても再発する確率の高さを知ったのは、もっとあとのことになる。


 入院と退院を繰り返す母の存在に慣れたとき、ぼくは突然そんな自分に驚いたのだった。


 あったものがなくなるかもしれないんだ。いつなくなるかなんて、わかんないんだ。でも大丈夫。ほらもう、父さんと兄ちゃんとの暮らしに、慣れてるじゃないか。ただ寂しいだけだ。それだけはどうしても慣れないなあ。


「喜代子と同級生だったっていったことがあって、すごい喜ばれてさ。それで金魚の話をしたんだよ。彼女はきっと大きくなって泳いでるっていうんだよ。だって、びっくりすることが突然起こるからって。だから、ありえないことなんかなんにもないっていうからさ。それで、なんとなく探すようになっちゃったっていうかさ」
 でかい金魚がいないことぐらい、ヤッチはわかっている。それでも探しているのは、願掛けに似ているのかもしれない。
「好きなんだもんな」
 たばこを消してからぼくはいった。
「うーん。まあ、正直、好きとはちょっと違うかな。そういうの、日本人は照れる感じだよね」
 要するに、愛というやつだ。ミカコさんに勝ち目はなさそうだ。
「うまくいかねえなあ、もう」
 そうだねとヤッチは微笑む。どうしてこうも人生ってやつは、ややこしいのだろう。もっと思いどおりになったっていいじゃないか。ぼくのマンガは売れていて、ミカコさんとヤッチは単純にうまくいってハッピーエンド。ぼくの家が他人のものになっても、遊びに来る気がおきたりして、会えばふたりはもう結婚していたりして、あのころちょっとおれは、みたいな会話を肴に酒が飲めたらいいと思っただけなのに。だから自転車をこぎまくったのに。
「でも、いまも苦しいけどさ。そういう苦しさにも、ひとって慣れるもんなんだなって思うときもあるよ。正直、しんどいけどね。でも、おれがしんどいわけじゃないもんな」
 ヤッチは目を細めて、窓の外に視線を移す。真っ青な空を、風に追われた雲が、ゆらゆらと流れている。
「こっちが、ちまちまやってても、地球は動いてるんだよな」
 ヤッチがつぶやいた。