Chapter.4 - 1

 結局ぼくは、翌日も島に残った。荷物の整理はとうに終わって、することなどなにもないのに、することのなにもない心地よさをもう少し味わっていたくて、だらだらと居間で眠ったり、散歩して過ごす。夕方になると、編み物とビールとつまみを持ったミカコさんがジャージ姿で現れ、昨夜と同じようにふたりして編み物にいそしんだ。ただし、今日はヤッチがいる。坊主頭ではなく、すっかりインテリの青年といった風貌で、編み物をするぼくらをソファに腰掛けて眺めている。


 札幌の大学で教員免許をとり、臨時職員として田舎の小学校を転々とし、今年から村の小学校で教えているのだと聞いた。札幌へ遊びに行っていて、昨日帰ってきたというので、ぼくがいることを知らなかったらしい。ミカコさんとはもちろん面識があるようだったが、ちゃんとしゃべったことはないのか、ふたりの会話は挨拶程度で終わり、どこかぎこちない気配を漂わせていた。編み物をしながら、ぼくらの共通の会話はなんだろうと思いめぐらせ、山本喜代子にたどりつく。ぼくが、ミカコさんは喜代子と友達だったんだとヤッチにふれば、知らなかったといってヤッチは口元をほころばせた。それで、ずいぶん喜代子の話で盛り上がってから、喜代子が初恋の相手だったとヤッチがもらしたのだ。でも、喜代子はタカちゃんのこと、たぶん好きだったと思うなとことばを続けて、ヤッチが笑った。


「転校してくとき、タカちゃんだけおれらと違うものもらってただろ。それで、あって思ったんだよ、おれ。あれ、なんだったの? 訊きたかったんだけど、なんか訊けなくてさあ」
 絵だよとぼくは答える。探したけれど、段ボールにも入っていなかったので、いつかの時点で捨ててしまったのだろう。いまさらだけれど、あれこそとっておくべき物だったと思う。
「なんの絵?」
「巨大ロボットと、おれとヤッチとミチの絵」
 へえ、とヤッチが嬉しそうに微笑んでビールを飲んだ。ミチは結婚して旭川に住んでいるとヤッチが教えてくれる。


「で?」
 ぼくは手を休めてビールを飲んで、ソファに横たわるヤッチに視線を向けた。
「昨日、なに見てたのさ。双眼鏡で」
 照れたようなヤッチの笑顔は、こどものころの面影をちゃんと残していた。ミカコさんも顔をあげると、ヤッチのことばを待つ。ヤッチはためらいがちに、でかい金魚、と答えた。
「でかい金魚? なんだよそれ。海にいるのか」
「タカちゃん覚えてないか。なあ、川にさ、金魚放したじゃない。ほら、喜代子が住んでた家の水槽にいた金魚をさ」
 まるで覚えがなかった。
「金魚って小さいところだと大きさは小さいままだけど、大きな水槽だとスペースに合わせて成長するみたいな話を、先生か誰かがしてて、じゃあ海に放せばすごくでかくなるねってことになってさ。淡水魚だってことなんてほっぽっちゃって。それで喜代子が、家にいる金魚は小さくてかわいそうだから、海に放そうってことになって。ヤツが」
 ぼくらは、酔って暴れる漁師を「ヤツ」と呼んでいた。
「いない時に盗んで、川の下流から放したんだよ。こっちに来てから、一度だけおれ、海岸から偶然見たんだ。クジラみたいな金魚が跳ねながら泳ぐのをさ。夜中だけど。たぶん赤いデメキンだった。突然変異の未確認生物」
「嘘だろ」
 苦い笑みがこぼれる。ありえない。ぼくにつられたのか、自分をばかにしているような苦笑をヤッチも浮かべた。
「笑うよね。でもさ、いてもいいかなとおれは思うんだよな。それで、たまにああやって夜中に探してるんだ。夜なんかどうせ暇だし」
 暇だし、ということばに反応して、同じ気分を味わっているであろうミカコさんが、ふっと笑った。野生のトドかなんかだろと夢のないことをぼくがいえば、たぶんねとヤッチは小さくうなずいて見せる。それからとりとめのない会話を交わし、すっかり夜も更けた頃になって、おもむろにヤッチがソファから起きあがった。


 いつ帰るのかと訊ねられて、決めていないと返事をするぼくに、ずっといればいいのにという。ここでマンガ描けばいいじゃない、こどもに絵とか教えてさ、などと無邪気な提案をされてしまった。
「いや、でも、この家売るんだ」
「そうなんだ。そうか。誰も住んでないと、家がかわいそうだもんな」
 ヤッチは帰っていった。そしてまた、ぼくとミカコさんのふたりきりになる。気づけばマフラーらしきものは、地味に長さを伸ばしていた。
「けっこう長くなってきましたね。これ」
「そうね」
 ヤッチがいなくなったというのに、ミカコさんはまだ居座っている。しかも、今日はどこか無口だった。岩本との会話を思い出して、変に意識してしまう。おれはどうするべきなんだ? いや、そのまえに、おれはミカコさんを好きなのか、好きになりかけているのか。わからないけれど、好きだといわれれば悪い気はしない、かもしれない。そうしたらもう、東京へは戻らずに、どこかに部屋でも借りて、ヤッチのいうように過ごしてもいいのかもしれない。


 それはかなり悪くないアイデアに思われた。なんとなく、ミカコさんがもじもじしているように見えてきてしまい、そうなってくると、いままでの奇妙なやりとりだとか妖怪だとか、意味不明な行動などは消去され、ただの美人な女性としか目に映らなくなってくる。男なんて単純なのだ。意識してしまったら、勝手に妄想はふくらんで、編み物をしているときみたいに、過去も未来も見えなくなり、目に映るのは「いま」だけになる。


 上目遣いに、ミカコさんを盗み見ようとしたときだった。甲田先生ってちょっといいわよねと囁いたのだ。
「だ?」
 予想を反する展開についていけず、おかしな声が喉の奥からもれた。ミカコさんは不審そうに顔をあげて、なによという。
「あ、いや。べつに」
 昔から、鈍感だといろんなひとにいわれてきた。喜代子のことだって、気づけなかった。マリにも、孝美は鈍感すぎるし的外れすぎる、だからマンガも絵はうまいけど話が面白くないのよと、しょっちゅう指摘されていたくらいなのだ、もちろん、担当者にも同じことをいわれているわけなのだが。
「ヤッチかあ」
 ぼくの家にはどかどかとあがりこんでくる妖怪が、今夜無口だったのは、ヤッチを意識してしまったからで、ぼくのせいではなかったのだった。
 脱力感と安堵感に力が抜けて、はははとひとり笑いをするぼくに、ミカコさんは眉根を寄せる。
「なによ。だめなの?」
「いや、だめじゃないす。全然」
 なにをやっているんだろうおれは。好きになる前にふられた気分だ。それでふと気づく。ミカコさんも鈍感なのだ。いまのぼくのように、好きになる前にふられた男がいたはずだ、たぶん大勢。
「でもあれよね。きっと保健の女教師とかと付き合ってたりするわよね。そういうのよくあるじゃない。しかもすごく年下じゃないの。それに、そもそも、また? みたいなとこ、あるのよね。べつに職業でいいと思ってるわけでもないんだけど。なにか、前のダンナがトラウマになってて、意地になってんのかしら、わたし」
 冷静に自己分析をして、好きなのかどうなのかと考えている間に、能動的なほかの女に持っていかれてしまうという不器用な恋愛の終焉が、なんだか容易に予想できた。
「それにわたしってどうなのっていうところもあるのよね。甲田さんは、あんまりわたしに興味ないみたいだったもの。まあ、甲田さんに限らず、そうなんだけど」
「あのですね。ミカコさんが興味なさそうにしてるから、相手もそういう調子になっちゃうんですよ」
 そしてぼくに興味あるみたいに、カジュアルに接してくるから、ぼくが勘違いしちゃうはめになっちまったんすよ、といいたかったがやめておいた。