Chapter.4 - 4

 数秒悩んだあげく、ぼくは車をおりた。商店の前で、田中のおばさんを偶然見かけたので、自転車を車からおろし、礼をのべてから、店の自動ドアを踏んだ。


 商店に入り、レジに立つジャージ姿の美人を誘う。ミカコさんは外に停まった車の助手席のヤッチに気づくと、あんぐりと口を開けたあとに、そそくさと奥へ姿を消した。例のふくよかなおばさんが代わりに姿を現し、出戻りの娘をもてあましているといったふんいきで、ぼくに意味深な笑顔を無言で向ける。明らかに勘違いしているようすだったが、否定するのも面倒なので、軽く会釈するだけにとどめておく。


 ミカコさんはジャージ姿のまま、急いでぬったらしい薄い色のグロスを唇に光らせながら、勝手に三本のペットボトルとお菓子をつかんでぼくのあとについてきた。下駄ではなく、真っ白なコンバースを履いていた。


 後部座席にミカコさんを乗せ、微妙な関係のぼくらは、借りた車でドライブへ出かける。哀しい偶然というべきか、ラジオからは、ギルバート・オサリバンの、ひとりぼっちになったみたいな歌詞の曲が流れていた。


 どこまでも広がる海を右側にして、北へ向かって海岸線を走る。ときおり、大型トラックや観光バスとすれ違った。砂浜と岩肌の浜辺が交互に姿を見せ、反対側には木々の茂った小山がそそり立つ。


 ぼくとヤッチは、ぽつぽつと昔話に花を咲かせた。地元の高校に入学したミチと、中学卒業と同時にぼくらは離れ、ヤッチは札幌の高校へ入学した。漁師は大変だと両親にいわれたのがきっかけで、中学へ入学してからヤッチはどんどんと成績をのばした。ヤッチにはふたりの兄がいて、すでに跡を継いでいたので、真剣に自分の人生を考えた結果、教職を選んだという。


 夏休みや冬休みに帰省しても、会うことが減っていったぼくらは、いつからか連絡も途絶えるようになっていた。若かったし、お互いに新しい友人や環境のほうが大切になっていたからだ。


 後部座席のミカコさんに、喜代子と出会ったいきさつをヤッチが訊ねた。
「知人の結婚式の二次会で会って、意気投合したの。だいぶ前のことよ。彼女の事務所にも何度か行ったし、よく飲みにも行ったな」
「札幌にいたんだ。知らなかったなあ。じゃあおれも、どこかですれ違ってたかもしれないな。ミカコさんにもね」
 そうね、とミカコさんが嬉しそうな声色をだす。ぼくはもう、見守るしかない。


 北のはずれに位置する岬は、小高い崖の先端にある。二台の観光バスの横に車を停めて、あちこちで記念撮影をしたり、土産物屋に人集りをつくっている観光客の仲間に加わった。


 岬から望める海は、深い蒼だ。さざめく波に流氷のような泡がたち、波間に溶けていく。たいして面白くもない景色を眺めていたぼくの横に、ヤッチが立った。クジラみたいなデメキンが泳いでいるわけもなく、はしゃぐ観光客に混じって、しばらくの間ぼんやりと海を眺めていると、なにげなくヤッチが囁いた。
「怖いな」
 ヤッチは背筋をのばして、まっすぐな視線を水平線に向けていた。眼鏡のフレームが乾いた日射しにあたって細く反射している。
「怖い? 海が?」
 ちゃかす調子でぼくは訊く。
「いろんなことがさ。この先に起こることが」
 ぼくの悩みなんて些末でくだらないと思ってしまうほどの、ちゃんとした大人の男の横顔で、彼女のことを想っているのか、ひとりごとのようにヤッチがつぶやいた。たぶんいつも、彼女のことを考えているのだ。


 ミカコさんが手洗い場へ行く背中を確認し、ほかの女とかって、と濁すようなことばを発してみる。ヤッチは口角をあげると、そういうこともあったけど、どうしてもだめなんだよなあと笑って見せた。
「人間ってそんなに器用じゃないんだなってわかったな。青くさいかもしれないけど、手をつなぐだけで満足だったりすることあるじゃない。もう、そこにいるだけで安心して眠れる感じ。おれはそういうの、変かもしれないけど、大事にしたいんだよ。激しい感じじゃなくて、もっとなんか、この景色みたいな感じっていうかさ。真夏でぎらぎらしてるんじゃなくて、夏なのに、ごめん夏で、みたいな、控えめなこの景色みたいなさ」
 もう若くない。勢いにまかせて刹那的に生きられない、ということだ。
「わかりずれえなあ。ほんとに先生なのかよ?」
 わざと軽めな返事をしたぼくのことばに、ヤッチは声をたてて笑った。


 ミカコさんが洗った手をひらひらとさせながら戻ってくる。ぼくらは再び車に乗り込み、適当に車を走らせて、さびれたラーメン屋で味の濃すぎる醤油ラーメンをたいらげた。そのあと、いくつかの集落に車を停めてぶらぶらと歩き、日の陰るころになって村に戻ることにした。


 ミカコさんの淡い気持ちにヤッチが気づくわけもなく、とうとう帰りの車の中で、気がゆるんだのか、ヤッチが彼女とのことをしゃべり出した。きっかけはラジオから流れたスタイルカウンシルの曲で、懐かしいなあとヤッチがいって、なぜ懐かしいのとミカコさんが訊ねてしまったので、ぽつりぽつりとふたりの会話がはじまってしまったのだ。おかしなことに、ミカコさんは押し黙るのではなく、ヤッチのことばに真剣に耳を傾けながら、徐々におしゃべりになっていく。


 信号などない一本道の海岸線を走る車の中で、そういう相手はなかなか見つからないものだと、ミカコさんはいった。
「そうですよね」
 ヤッチがいう。
「そうよ。こんなにいっぱいひとがいる世界で、そういう相手はなかなか見つからないものよ。お手軽な恋愛対象はいるかもしれないけど、楽なほうに逃げたら、きっと後悔するんだから。その相手も、自分も」
 なんだか、自分にいいきかせているような口振りだった。バックミラーを見上げれば、窓の外を見ているミカコさんの横顔が映る。好きになるまえにふられたような、複雑な微笑みを浮かべたまま、車の振動に小さく髪を揺らしていた。