Chapter.3 - 4

「それで、修羅場などに?」
「なったわ。といいたいけどならなかったわ。妊娠しちゃってたし」
「嘘ですよね?」
「本当よ」
 ぼくは頭をかきむしった。針を持って、再び編みはじめたミカコさんは、けれども哀しそうではない。むしろなにか楽しかったことを思い出すような、奇妙な表情を口元に浮かべて、睫毛をふせていたのだ。
「なんで、ちょっと笑う感じになってんですか?」
「だって。かっこよかったのよね、なんだか」
「は? 誰が?」
「その子が」
 わからない。またラテン語で話されているみたいな錯覚に陥ってくる。


「おかしいけど。かっこよかったのよ。全部自分のせいだから、先生を責めないでくださいって。その子の家がちょっと複雑なのもあって、卒業間際だったし、家を出て、ひとりでなんとかしてくっていうの。こどもが好きみたいで、産むっていうのよ。それも強がってる感じではなくて、本気なの。そういうのって、わかるじゃない。背筋をぴんと伸ばしてて、ちょっと肌とか黒いのに、系統としてはギャルみたいなのに、いうことが体育会系だったのよ。先生は困らないでくださいって。奥さんいるのはわかってて、自分が勝手にせまったんだからって。それで、土下座されたわ。スンマセンって。自分のこと忘れてくださいって」


「実話、ですよね?」
「実話です」
「そんな女子高生も、いるのか」
「あんまりいないでしょうね。でもきっと、いろんなこと見てきたんだと思うな。そのたびに、ちゃんと自分で答えを見つけてきた感じの子だったのよね」
「それで、そのう。元ダンナはなんて」 
「仁王立ちしてたわ。もう決めてるみたいな顔してね。そのとき、あたし、ダンナを見ていて、一瞬だけぴゅんとどっか遠くに意識が飛んで、妙なこと考えたの。ああ、この人は結婚する相手を早まって、間違えたんだ。ただあたしではなかっただけで、気づくのがいまでよかったって。もっと老いてしまってからではなくてって」
「それ。悟りすぎな感じも」
「ちょっとよ。一瞬だけよ。それからもいろいろあったし。でも、かなわないなあと思ったのは事実だし、もうその時点でアウトだもの」
 そしてミカコさんは、その女の子に、どうぞ、といったという。どうぞ。宇宙の果てまで一緒にいってしまってください。


「それは嘘ですよね」
「美談にしたいから、脚色してみたわ」


 うらやましい男だ。元妻も若い愛人もいい女じゃないか。元妻は不器用すぎて、少しおかしいところもあるけれど。
「似たもの夫婦だったのよね、いま思えば。似てるのっていいみたいだけど、実はけっこう難しいのよ。いいときはいいけど、だめになるときは一緒になってだめになっていくじゃない。なんとかしたいのに、どっちかがなんとかしてくれるんじゃないかと思って、お互い待ってしまうのよね。それで、気づいたときには破裂してるわけ、ということをあとになって、思い返して学んだわ。豪華客船の中で」
「客船?」


 ミカコさんの元ダンナは、五歳年下の知人の弟で、人生ではじめてデートに誘われて、人生ではじめてドライブに出かけ、驚くべきことに人生ではじめて一緒に眠った相手だったという。不器用な人生に、はじめて花束を添えてくれた相手だったのだ。


 離婚と同時になにもかもがどうでもよくなり、会社を辞めて全財産と慰謝料を費やし、豪華客船に乗り込んで世界一周したとミカコさんは自慢げだ。そこでロバートというイギリス人紳士に出会い、めくるめく日々を過ごした、というのは作り話だったが、豪華客船は本当だった。それで、カバンひとつでミカコさんが島に来たという、田中のおばさんのいったことに納得した。


 恋人はいるのかと、ふいにミカコさんがぼくに訊ねた。
「アフリカにとられました」
「そうなの。それは相手が悪かったわね」
 ふっとミカコさんが笑みを浮かべたので、ぼくもつられて少し笑う。ずっと島に住むのかミカコさんに訊けば、わからないと返事がかえってくる。
「また仕事探したりすればいいじゃないですか」
「メールはくるのよ。独立すればとか、いろいろ。でもなんだかやる気がおきないのよね。そういうときは、なんにもしないのがいいじゃない。なんにもしてなくても、あんがい、その時がきたら、ちゃんと自分はわかってくれるって、思ってるから。だって、あんなすごいことがあっても、生きてこられたんだもの」


 すうと肩の荷がおりていくことばで、ぼくは手を休めてミカコさんを見つめた。なんだ、いい女じゃないか。いや、いいひとだ。でも、いいひとは損をすると相場は決まっている。ミカコさんは不器用で、たぶんおひと好しなのだ。そういうひとは、自分の身を守るために、無意識のうちに虚勢をはってしまうものだとぼくにはわかる。山本喜代子がそうだったからだ。 


「損しますよね。あ、まあ、美人すぎると、っていうか」
 おひと好しだともなんだかいえず、煮え切らないぼくのことばに、ミカコさんはふっと息をもらす。
「すぎる、のともちょっと違うのよ。本当の美人はもてるの。あたしは中途半端な美人。中途半端な美人は、ちょっとゆるい感じじゃないと好かれないのよ。それなりに演技して倒れたり泣いたりしないと。でもだめ。そんな面倒なことするくらいならひとりでいいやって思ちゃうから。ひとりの免疫できすぎてね。そういうのが、男からすればつまらないのもよくわかってるんだけど。だいたい」
 ミカコさんは手元に視線を落とし、まるで気持ちのこもっていない声色でいった。
「あなた、あたしとやれる?」
「ええ? なんすか、それは」
 なぜ、そうなるのか。やれるだろうか。いや、それは全然オッケーす。ただし、ふんいきがまるでなっていないし、盛り上がりに欠けてはいるけれど。
「おれ的には」
 妙な期待がふくらんできて、真剣に答えようとしたのに、ぼくを見つめるミカコさんが、ごめん、あたしが無理だわというので、編んでいたものを針ごと宙に放った。やれやれだ。
「けんか売ってるんすか? 悪い男だったら犯されてますよ、そんなこといって」
「悪い男なんかいないわよ。おろおろするのがかっこわるいから、悪いふりしてるだけ。って友達がいってたわ、そういえば」