Chapter.2 - 2

 場面が場面なだけに、始業式とともに学校へ現れた喜代子に、拾ったと告げることもできないまま、なんとなく無視し続けたある日のこと、ヤッチとミチと自転車で小川へザリガニを獲りに行こうとしていたときに、突然例の男の家の玄関が開いて、ノートを抱えた喜代子が飛び出して来るのが視界に飛び込んできた。酔った男が、逃げる喜代子の背後から、怒鳴りながら追いかけてくる。


「乗れ!」
 といったのは、ヤッチだった。喜代子はヤッチの自転車の後ろに飛び乗り、ぼくらは男から逃げた。必死になって自転車をこいで、寺の敷地内に逃げ込む。


 男はもう、追いかけて来なかった。喜代子は般若みたいな顔をして、口をすぼめてうつむいた。
「もういやだ。なにもかも」
 喜代子がいう。ここも、あいつも、母さんも。全部つまんない。全部おもしろくない。
「つまんないったって、なんもないんだからしゃあーないやんけ」
 ヤッチが頬をふくらませていう。やがて喜代子は泣いてしまった。いままで我慢していたものをいっきに吐き出すかのように。


 ぼくらは気まずくなり、視線を交わしながら途方に暮れる。五人姉弟のお姉さんのミチが、自分の前髪をとめていた星型のヘアピンを取ると、喜代子に渡した。ピンク色のラメが光る星のピンは、ミチの一番のお気に入りだったのに、あげる、といって笑う。こどものくせに、なんとか喜代子を元気づけたくて、そうしたのだと思う。


 しばらくしんと間があいて、おずおずと喜代子が手を伸ばす。勇者といったって、九歳の女の子だ。いいの、と訊くと、いいよとミチがうなずく。
「そしたらあたし、違うのあげる。キティちゃんのバンソウコウ持ってるんだ。あと、お寿司の形した消しゴム」
「うわあ。本当? 欲しいな!」
 その日から、ジャイアンの目を盗んで、ぼくらは基地と呼んでいる壊れた漁船に集合して遊ぶようになった。


 喜代子は、転校前の友達の母親にもらったという昔のマンガを、たくさん持っていた。竹宮恵子、大島弓子、そして萩尾望都。いつか自分もマンガ家になるんだという。だから、男が暴れても、トイレや浴室にこもって、マンガを描いていると自慢した。そしてぼくはやっと、暗号解読したキスシーンを喜代子に渡すことができた。エロいぞとヤッチにひやかされて、ミチと喜代子はくすくすと笑う。


「よかった! このシーン、気に入ってたんだ」
「どういう話なんだよ、それ」
 ロボットの少女と人間の男の子の話。でも、キスをすると、ロボットは記憶を無くす。だから、男の子のことも忘れてしまう。そういう話だと喜代子が熱っぽくぼくにいう。
「哀しいなあ」
「きれいだよ。男子にはわかんないよね」
 ヤッチのことばに、ミチは大人っぽく肩をすくめた。


 いつか喜代子がマンガ家になったら、単行本を買うからサインしてとミチがねだる。みんなは大人になったらなにになるのかと喜代子に訊かれて、ミチは保母さんになると答えた。ヤッチは、漁師になるんかなあと首を傾げて、ぼくは、誰にも話してない夢を語った。


 巨大ロボットの操縦者になること。兄の影響もあって、ガンダムに夢中だったし、アムロみたいのじゃなくて、もっと強くて、しっかりした操縦者になるのが夢だったのだ。


「タカちゃんは頭いいからさ。大学とかいって、そういうふうになるかもしんないなあ。アメリカにはナサとかいうとこもあるしさ、宇宙とかにも普通に行けるようになるんだ、いつか。だからさ、そういうのもきっとできるよ」
 ヤッチがいった。
「なれるかなあ」
「なれるよ。そしたら乗せてほしいな」
 喜代子がはっきりといった。


 はてしない未来を、さいはての地で思い描く。しかしそれは、出張で札幌へ行った父が買ってきてくれたアニメ雑誌で、もろくも崩れる。欲しいとせがんだのはぼくなのに、目にした雑誌の中の、放映中の巨大ロボットは、うすっぺらいセル画でできたただのアニメで、現実に起こるようなことではない空想の世界で、ぼくが操縦する日は絶対に来ないのだと、目の前に突きつけられた気がした。うすうすわかっていたことなのに、それでも「万が一、もしかするとあるかもしれない」という、小さな期待すらまっさらに消されてしまったのだ。


 全部がおもしろくないといった喜代子のことばが頭の中をループした。
 本当だなあ、喜代子のいうとおり、現実なんて知っちゃうと、なんもおもしろくねえよなあ。


 それからぼくは、見るといたたまれない気持ちになるので、再放送のガンダムを避けるようになった。なにげなくノートに、ぼくもコマを割ってみる。はじめは鳥山明の絵に似せて、好きなように空想し、好きなように主人公を動かし、思いのままに操っていく。それで、自分の中に埋まる夢を現実にしたくて、喜代子はマンガを描いているのだと、ぼくは気づいた。