妖怪が畳の上に正座した。ぼくの足もとに転がるたばこの箱をめざとく見つけると、一本ちょうだいというやいなや、火をつけて満足そうに深く吸い込む。
「なんなんすか」
閉じたアルバムをつかんだ妖怪は、勝手にめくりはじめていった。
「やっと、見つけたわ」
「はあ?」
たばこをくわえながらアルバムをめくり、一枚の写真に釘付けになると、長いまつげをふせたまま動きを止め、実はあたし、妖怪じゃないの、ミカコっていうのよとあたりまえなことをいう。
「わかってますよ」
ミカコさんはどこぞのおやじのように、人さし指と親指でたばこをつまむとふうと煙を吐き、上目遣いにぼくを見てにやりと笑った。
「いや、あなたはわかっていないわ。あたし、実はこう見えても博士なのよ」
誰か助けてくれ。離婚の理由の見当がつく。
「じゃあ、なんなんですか」
なんでもいいよと心の中でつぶやきながら、田中のおばさんに助けを求めるべきか、バカンス中ではしゃいでいるであろう大友にメールをすべきか、いや岩本かとぼくが思案していた最中に、驚愕の事実を明かされた。
「巨大ロボットを操縦する人間を探していたの。ほら、あの小学校の山の中に、実は施設があって、スイッチひとつであの山、真っ二つにわれて、ロボットが出てくるのよ」
自分の顎の関節が外れるかと思った。この人はなにをいっているのだろうか。日本語なのに、ラテン語を話している人間を目の前にしているようで、顔の筋肉が硬直し、開いた口がふさがらない。
「て、うそだけど」
どんなことばも出なかった。かわいそうに、この人の元夫は、しなくてもいい苦労をしたに違いない。
静まった部屋に、海岸に寄せるさざ波の音がひっそりと響く。蛍光灯の下で、一枚の写真に見入るミカコさんが、覚えているかとそれを抜き取り、ぼくの目の前にかざした。
小学生のときのクラスで撮った写真だ。坊主頭の少年とぼくの横に三つ編みの女の子が立ち、手前に眼鏡をかけた先生と、栗色のショートカットに、ピンク色のパーカを着た女の子が、緊張気味に映っている。その女の子をミカコさんが指した。
「覚えてますよ」
「あたしの友達よ」
ミカコさんがいった。
「え?」
「友達よ。年はずいぶん違うけど、知人の結婚式で会って、二次会で盛り上がってから仲良くなったのよ。かなり前のことだけど」
どうやら、今度は本当らしい。面影あるわね、かわいいじゃないと彼女は目を細めて、たばこの灰を空き缶に捨てる。
「あなたもマンガ家なんでしょ?」
「はあ、まあ」
ミカコさんはなめるように写真を見つめてから、名残惜しそうにアルバムに収めて、おもむろにビニール袋をつかんで腰を上げた。
「冗談はおいておいて。とりあえずグラウンドで飲みましょうよ。今日はけっこう星が見えそうだし。どうせ暇なんでしょう」
断っても連れていかれそうな勢いに諦めて、ぼくも立ち上がる。
海岸沿いを走る車のエンジン音がとどくほど村は静かで、人気のない細い道を、からんころんと下駄の足音がこだまする。本物の妖怪の足音みたいだ。どの家からも、灯りがもれていて、暗闇の道を照らしてくれる。湿った夏草のにおいが、忘れてしまった記憶のすみをつついてくる。
五分ほど歩いて、小学校に着く。グラウンドは低い小山に囲まれていて、山のてっぺんにはまばゆい満月が浮かんでいた。ときおり流れる雲の影になると、いくつもの小さな星が、澄んだ夜空に姿を現す。
ビニール袋の中身は、鮭の薫製にチーズに缶ビールだった。グラウンドの真ん中に坐って、ぼくとミカコさんは缶ビールを開けた。冷気に湿った土の感触が、ジーンズから伝わってくる。薫製の包装袋を歯引きちぎった彼女は、鮭をかみ砕きながらごくりとビールを喉に流し込む。
素っ気ない街灯の光と、しんみりした月のあかりが混じり、田舎の闇をうっすらと照らす。ぼくらの影が雑草の混じった土の上に落ちて、肌寒い風が吹くたびに、香ばしい土の香りが漂った。彼女のいうように、真っ二つに割れる光景を想像しながら小山を見上げていると、彼女がいった。
「こっちに来て、小森さんちはすぐにわかったんだけど、誰も住んでなかったから、つまらないなあと思ってたのよね。昼にあなたに会ったときも、小森さんだとは思わなくて、たまに観光客からかうのが面白くなってたから、おんなじようにからかってみたんだけど。そうしたら、あなたが小森さんちのひとだって聞いて、しゃべってみたくなったのよ。なんせもう、しゃべる相手もいなくて、暇ぶっこいてたものだから、あたし」
ぐいとビールを飲み干す。
「それに、他人の初恋の相手って、ちょっと興味そそられるじゃない」
「え?」
目の前であぐらをかいているミカコさんが、山本喜代子よと笑った。
「山本喜代子、ですか?」
栗色のショートカットに、ピンク色のパーカを着た生意気な女の子の輪郭が、記憶の底からゆらゆらと顔を出してくる。
「ほんと、っすか?」
「まあねえ。もうどうでもいい感じだけどねえ。でも、ちょっと見てみたかったから」
ぼくの描いた単発の読み切りマンガが掲載されていた雑誌を、山本喜代子は全部持っていたとミカコさんが告げる。いまも描いてるんでしょうと訊かれて、ぼくはあいまいにうなずいた。
「でも、このまんま消えるかも、って感じっすよ」
ぼくはいったい、何を描きたいのだろう。意味なんてあるのだろうか。自問自答を繰り返してる暇があるのなら、なんでもいいから描けばいいのに。もう三十歳になるのに、ひどく焦ってしまう。それに、一生大友の家に居候できるわけじゃない。
ふいに、流れ星だ、とミカコさんが夜空を指していった。
「あれ、たぶん、喜代子よ」
ミカコさんがいう。
ぼくらはその夜遅くまで、寒い寒いといいながら、いつまでも薫製をかじって、ビールを飲んだ。
