まずそうな灰色の綿菓子のような雲の向こうで、ぼんやりとした日射しがにじんでいる。肌寒い風が吹いたので、パーカのジッパーを首まであげながら戸口に立った。頑固にひとりで暮らし続けていた父が七年前に倒れて、兄夫婦と暮らすようになってから、この家はずっと空き家になっている。元気だった父と、兄夫婦と、この家で年を越して以来の帰省なので、九年ぶりだ。そんなに経つのかと思いながら見上げた二階建ての木造モルタル一軒家の壁は、白いペンキがはげてひび割れていて、青いトタン屋根もところどころさびていた。
兄に借りた鍵で戸を開けると、がらりと懐かしい音をたてた。土埃のようなにおいがかすかに鼻につく。タイル張りの玄関床には、あたりまえだけれど靴はない。スニーカーを脱ぎ、ほこりのかぶったフローリングに立って、居間のドアノブを回した。
敷かれていた水色の絨毯ははがされ、フローリングがむき出しになっていて、足の裏が冷えた。食器棚もテレビもテーブルものぞかれ、三人掛けのソファだけが壁に沿うように置かれてあった。南向きの大きな窓に視線を移せば、木々の葉が風に揺れる山が見える。
たばこを好んでいた父のせいで、壁の全体がうっすらと変色しているのに、四角い形の真っ白な影が、眩しく浮き上がっていた。そこには陸上大会で優勝した兄の賞状だとか、ぼくの絵の賞状だとかが飾られていたのを思い出す。
居間の奥は床の間で、すすけたレースのカーテン越しに淡い光が射し込み、畳の上に影をおとしていた。仏壇のあった場所もすっぽりと抜け、なにもない。
荷物を床の上に置いて、手を洗うために台所の蛇口をひねったけれど、水が出ない。台所の横の引き戸を開けて、カビくさい浴室を過ぎ、またドアを開け、一畳ほどの土間に元栓を見つけた。元栓をひねり、ドアの上にある電気のブレーカーをあげて、もう一度蛇口をひねる。赤茶けた水が勢いよく出て、しばらく待つと透明な液体になる。石鹸がないので、ただ両手をこすりあわせ、ジーンズで拭いた。
兄にいわれて買ってきた菓子折を持って、隣家に住む田中さん夫婦に挨拶をするために家を出た。漁で生計をたてている昔馴染みの老夫婦で、いまも捕れた魚などを兄に送ってくれているのだという。
玄関先でこんにちはと声をはりあげたとたんに、背の曲がったおばあさんが現れる。背はぼくの胸あたりまでの高さで、白髪混じりの髪に細かなパーマをちりちりとかけていて、黒い花柄の七分袖のカットソーに、グレーの花柄のエプロンをつけていた。ひとの良さのにじむ瞳を細めると、表情の判別が難しいほど、顔の皺が浮き上がる。
ぼくの足もとから頭のてっぺんまで視線を動かし、じいとぼくの観察をはじめたおばあさんは、すぐに笑顔になって、誰だかわかんないべさあ、などといって喜んだ。
「どのくらいいんのさ?」
田中のおばさんがいう。本当はおばあさんなのだが、いくつになってもぼくにとってはおばさんなのだ。
「二日ほど、と思ってるんですけど」
「もっとおればいいのに」
家を売ったらさびしくなるとおばさんがいう。菓子折を渡すと、いらんいらんとぼくの腕を振りほどくので、強引に下駄箱の上に置いた。今夜はご飯を食べにくればええべさ、風呂もわかせないんだからいつでもはいりにくればええべさとおばさんが声をはりあげる。ぼくは何度も頭を下げて、ドアを閉めてから寺へ向かった。
一軒家が点在するさびしげな漁村だ。行き交うひともおらず、しんとしていて、海岸からひびく波の音ばかりがこだましている。
道すがら、野に咲く花を数本抜き取って、ぶらぶらと寺の横を通り過ぎ、舗装された狭い道を渡り、寺の裏手に広がる低い丘をのぼった。昨晩は雨でも降ったのか、獣道みたいな坂が濡れていてすべる。泥と草を踏みつけるようにして歩いた先に、小さな墓地が現れる。
小森家の墓は、兄夫婦が手入れしてくれたのか、きれいに整えられてあった。線香がなかったので、ジーンズのポケットからたばこを取り出して火をつけ、花と一緒に墓の手前に置く。手を合わせたりするのが苦手なので、ぺこりと頭をさげてから、丘をくだりはじめたぼくの目に、低い山々を背にして建っている、小学校の赤い屋根が映った。風にそよぐ木々のすきまから見える小学校は、建て替えたのか真新しくて、なんの感慨もおこらない。けれども、変わらないグラウンドや山の景色は懐かしかった。
岩肌の目立つ海岸に人影はない。村の景色を眺めながら、海岸沿いの道を歩いていると、一台の観光バスが通り過ぎた。フェリーの着く港から四キロも離れた、観光スポットのない島の漁村を、わざわざ訪れる観光客は少ない。
