序・2

 ずっと思い出せない言葉がある。
 まるでそこだけを切り落とされたように。そこだけを覆い隠されたように。無声映画のような映像だけが鮮明に浮かび上がり、その後視界は闇に閉ざされる。


 その闇に青白い炎が浮び上がる。仄暗い、幽鬼を思わせる炎だ。

 
 リビングに入ると、完全な流れ作業で照明とテレビの電源を入れていた。長い一人暮らしの癖は、こんな陰鬱な気分の時も変わらないものだということを思い知らされた新藤昌之は、自嘲の笑みを作る他なかった。


 暗黒から色彩を取り戻したブラウン管の中では、六年前に起こったある事件の会話が交わされていた。無記名の封書を使い、文部科学省に直接送りつけられた『いじめを原因にした自殺予告文書』以後、現在に至るまで、似たような封書が送りつけられる事例が絶えず、中には悪質な悪戯として逮捕者まで出していた。教育の現場に詳しいと紹介された、頻繁に目にするコメンテーターの男が、「模倣犯も含めて対応していかなければならないのですから、なかなか実態に迫るのは難しいものがあります」と当たり前で当り障りのない事実を、さも自分にしかわからないことのように口にしている姿をしばし眺めていた新藤は、いつもならば不快に思うそんな光景にさえ、何の反応も思い浮ばない自身を客観視し、改めて内心の動揺を悟った。


 鍛えた肉体の象徴である太い首を窮屈に締め上げていた黒いネクタイを毟り取るようにはずし、見るからに上質とわかる革張りのソファの上に投げ捨てた新藤は、テレビの電源を落とすことも忘れ、実際よりも数倍重く感じられる身体を引き摺るようにして、書斎へと向かっていた。
 

 いじめによる自殺。偶然目にしたにしては、出来過ぎじゃないか。呆然と眺めていた報道内容は、さらに自嘲の色を深めた新藤の頭の中を埋め尽くし、今、彼の身体に圧し掛かっている黒い影と共になって、その重さを増していた。


 あの報道が取り上げているいじめは、自殺予告を送りつけてきている人間が、文面や筆跡から学生と判断された。そのため各教育機関は学校内、特に中、高生の生活実態の把握に終始していたが、新藤はいや、と首を振った。
 

 彼らだけではない。集団の意識から外れ、独自の見解を見出そうとするものには、例外なく集団からの攻撃が浴びせられる。外れたものの主張の真偽など、関係ないのだ。ただ外れることそれ自体が、一個の集団にとっては最も重大な悪なのだ。集団というものが存在する限り、その構図は変わらない。学生であろうと、企業人であろうと、地方、国家公務員であろうと、そして我々であろうと......


 一人暮らしには広すぎる3LDKの一室。書斎としている部屋に入り、後ろ手にドアを閉めようとした新藤は、その扉の内側にかけられたままになっていた特徴的な礼服に気付き、振り返ると、今日自らが袖を通すはずだったそのモスグリーンの上着を見つめた。一等陸尉を示す肩の金色桜星章の三つ星と短冊型章が、まだ明かりの灯されていない部屋の中、窓から差し込む光を鈍く反射して輝いたように見えた。


 何がおかしい。新藤はその輝きに、自身の不甲斐なさを笑われたように思えて、内心つぶやくと、礼服に背を向けた。


 数時間前、この礼服に袖を通して家を出ようとした時に鳴った一本の電話。その指示によって新藤は、喪服を引っ張り出すこととなった。指示の内容はおよそ納得の行くものではなかったが、高圧的な指示には反論の余地もなかった。しぶしぶ、だが慌しく着替え直し、家を出た新藤に、この礼服を片付ける余裕はなかったのだ。


 それが今、まるでこの陰鬱の戒めのように、物言わず見下ろしている。こちらをあざ笑うかのように、階級章を月光に輝かせて。


 おれに、何が出来たと言うんだ、吉岡。


 ずっと思い出せない言葉がある。
 友の顔を思い出し、それでも一緒には付いてこない声を蘇らせようとして、新藤は今しがた参列した葬儀の壇上に据えられた彼の写真を思い、音にはせずに話しかけた。
 

 わずかな参列者のみの、ごく小さな葬儀。それはしめやか、という言葉を通り越し、忘却、という言葉がよほど似合うように新藤は思った。わずかな参列者も、ひそひそと噂話に終始する者がほとんどの葬儀を、祭壇の向こうから、生真面目な友はどんな思いで見つめていたのだろうか。焼香を上げる時、ふと煙の向こうに見つめた生前の彼の写真は、やはり何も言葉を発しようとはしなかった。


 彼はすでに自衛官ではない。自殺したところで、その原因に関しては、我々の預かり知らぬところだ。新藤を一般の参列者に変えた電話の主は、この上もない尊大な言葉でそう告げていた。それが防大卒、生粋の幹部として三佐まで昇進した事実を持つ人間に対する行為として、正しいものか。やり場のない怒りは、葬儀会場に着いて、自衛隊がらみに花輪がひとつもないことに気付いた時、その徹底振りに苦笑を浮かべてしまった時点で、すでにある限界を越えてしまっている。
 

 原因に関しては、預かり知らぬところ、だと? ならば彼が退官した理由も、預かり知らぬところと言うのか? 彼を追い込んだその理由も、預かり知らぬところと......
 

 立ち込める焼香の香りと、親友と呼ぶことが出来た存在の白黒写真。もはや感情を語らぬ彼の視線に呼び起こされた、怒りを飛び越えた場所に位置する、呼び名さえなき激しい感情は、新藤の視界までもぐらりと歪め、暗転する。その闇の中に、青白く灯る仄暗い炎を幻視した新藤は、ついに立っていることさえもままならなくなり、ふらつく身体の置き場を、書斎の椅子に求めていた。