2・12

「それで、弟さんはなにか言ってた? どこかへ行くとか」


「やっておきたいことがあると。それ以外は......」


 公安が失探した視察対象者。それが新藤という男なのだろう。目撃した事実にあれほど興味を示したことからも、それは間違いない。


 自衛隊最強を謳われる第一空挺団に所属していた視察対象者と行動を共にしていた弟。いったいなにをしていたんだ。なにがあって、視察対象になるような人物と親密に? 兄の心で弟を見ようとし、弟の心を一切理解できなくなったあの夜の月と、弟の漆黒の瞳を思い出してしまった亮は、ただただ言われるままに女の質問にぼんやりと答えた後、突然わきあがった不甲斐なさ、自責の念に歯噛みした。


「そう。ありがとう。私からの質問は以上です。今日はご足労願い、ありがとうございました」


 庁舎の玄関口に迎えにきた男と同じ、まったく感情の伴わない口調で謝辞を述べた女の声を、戸口の向こうで聞いていたのか、絶妙なタイミングで扉が開かれた。あの痩せ過ぎの男が姿を現し、頷くような仕草をした。


「待ってくれ、待て!」


 女の手がラップトップに伸び、折りたたんで持ち上げようと動く。その手首をラップトップに向き直った亮が掴んでいた。痩せ過ぎの男が、その動きに一瞬の動揺を見せ、すぐさま駆け寄ろうとした姿が見えた。だが構わず亮は言葉を重ねた。


「この男は何者なんだ? なにをした? 弟は、明はなにか関係しているのか? 頼む、教えてくれ」


「あなたは知る必要がない」


 男の姿が数歩走り出しただけで止まっていた。どうやら掴まれていない右の手で、女が合図を送って男の接近を制したらしいようすだったが、なぜそうしたのかは、亮にはわからなかった。いや、わかろうという思考が働かなかった。ただひたすらに弟のことを思った亮は、それだけにしがみつこうと必死になっていた。


「必要ない? 明はおれの弟なんだぞ!」


「それで?」


 それで。弟のことだから、自分の唯一の肉親だから、弟の現状を他者から聞いて、おれはどうしようというのか。拒絶の意思を強く示す女の言葉は、亮の耳から脳の一番奥を突き刺して、頭の中に拡散した。


 なにかが起ころうとしている。弟がそれに加担しようとしている。それを聞いたところで何もできない自分の無力さを知り、痛感し、そしてかつて同じ感情を味わった記憶を、亮は呼び覚ましていた。


「聞いて、あなたになにができるの? なにをしようというの? 目的も、行動も伴わない情報は、邪魔になるだけ。無用の長物よ」


 明らかに動きを止めた亮の様子を察したように、女は畳み掛けると、手首を握られたままの左手で、ラップトップを閉じた。一緒に動いた亮の手は、閉じた拍子に力なく外れ、女の手はラップトップを抱えてその場を離れていった。敷き詰められたカーペットを踏みしめる女のわずかな足音が、離れてゆく。


 女の言うことは正しい。自分がこんなところで、こんな形で弟のことを知ったからといって、どうなるものでもない。自分は女のように公安警察の人間ではないし、ましてもう警察官ですらないのだ。


 だが、それでも。


「それでも、おれは知らなければならないんだ!」


 叫んでいた。会議室を去ろうとする女の背中に向けた絶叫に近い声は、女の足を止めた。


「おれは一度、弟を助けてやれなかった。だからもう二度と、知らないところでなにかに巻き込まれる弟を、見過ごすわけにはいかないんだ」


 暗い部屋に閉じこもった弟の姿が脳裏を過ぎった。あの八ヶ月あまりの時間を思い、その開くことのない扉に一人話しかけ続けた自分を思い出した亮は、気付けば肩で息をしていた。形振りなど構わない。どうあっても聞きだす、と固めた意志を、立ち止まった女が肩越しに送ってくる拒絶の視線に真正面から叩き付つけた。


 沈黙が続いた。どうするんですか、という視線を、痩せ過ぎの男が冷淡な女に向けていたが、女は微動だにせず、沈黙は永遠に続くかのようにさえ思われた。


「小野田さん、もう少し待ってもらえますか」


 どれぐらいの時間が経ったのか。女の声が奇妙なほど近くに聞こえた。男が一礼をして、扉が閉まる。


「あなたたち兄弟に何があったかは知らないけど、聞いて、納得して、他言無用で帰る、というのなら話してあげるわ。ただし」


 女が振り返る。ラップトップの明かりが消え、また街明かりだけが光源になった会議室では、先ほどと同じく、ほとんど相手の表情を読み取ることはできなかった。だがその声には、表情なしでも十分なほどの、暗澹たる空気が満ちていた。


「聞いて後悔をしないこと。あなたは、あなたの弟を、間違いなく過信している」


 女が机にラップトップを置く、ごとり、という硬く、重々しい音よりも、亮は自らが飲み下した唾液の喉鳴りを大きく聞いた。