千代田区霞ヶ関は、れっきとした観光名所である。皇居に国会議事堂、中央官庁のビル郡。日本を象徴する建築物が集まる特異な街。それが霞ヶ関という唯一無二の街だ。
その地下を走る通路で、そして今、地上への階段で、数人の外国人観光客とすれ違いながら、そんな思いを新たにした亮は、四番出口の階段を登りきると、冷え冷えとした冬の夜気の中に身を晒した。
もうすっかり宵闇に閉ざされた空に、さらに濃厚な闇が聳え立つ。威圧感さえ感じさせるビルを、地上に出た瞬間に見上げ、冷気が倍になったかのように亮は感じた。腰丈のダウンジャケットの襟元に首をうずめ、ポケットに手を突っ込むと、そのビルの正面玄関に向かって歩く。それは寒さからだけではない、まるで何かから隠れるような仕草でもあった。
東京メトロ有楽町線桜田門駅の地下道四番出口から、目的の正面玄関までは数十歩の距離。一度だけポケットから引き出した左手首に十八時五分前を確認した亮は、たどり着いた目的地で待つことはせず、入口警護に当たる制服巡査に通行証を見せると、そのままビルの中に入った。
警護の警官が怪訝な顔を向けていることを背中で感じたのは、警視庁本庁ビルの一階エントランスに足を踏み入れた時だった。完全に私服。それもあまりにカジュアルすぎる自分の姿を考えれば、東京都の警察権力の頂点に位置するこの場所に現れるには、不釣り合いすぎる。この格好では彼らには亮が同じ警察権力の元にいた機動隊員とは思えもしないだろう。通行証を再度確かめるべきか悩んでいるかのような視線に、無理もないか、と思いあたりつつも、自分は強制的に休みを与えられ、半ば退職した身。わざわざ自宅から制服を引っ張り出してくる気にもなれなかった。
だいたいにして、今日この場に呼び出された理由もはっきりと告げられたわけではないのだ。おおよその予想は立っても、わざわざ正装する気になど、到底なれはしなかった。
エントランスの半ばほどで立ち止まった亮は、今一度左手首に時間を確かめた。長針が十八時ちょうどを指す。まさにその瞬間。
「高宮亮さんですね」
気味が悪いほどに正確な時間で現れた相手は、背広に身を固めた痩せ過ぎの男だった。神経質そうな瞳を銀縁眼鏡の下に輝かせる男は、その目を手に持った何かの書類と、亮の間を数回行き来させた。
「お呼び立てしたのは我々です。ご足労願い、申し訳ありません。どうぞこちらへ」
無言を答えと思ったのか、それとも最初からわかっていたのか。言葉のわりに感謝の念も情も通わない声で言った男は、さっさと亮に背を向けると、建物奥に見えるエレベーターホールの方へと歩いていった。
しぶしぶその背中に従った亮は、なんとなく今日、自分を呼び出した存在がどのような相手なのかを理解した。あの男自身が亮を呼び出したにせよ、それより上の存在が使いに出したにせよ、男が所属する部署を男の立ち居振る舞い、印象、気配から感じ取った亮は、その答えが生んだ別の疑問に、歩きながら小首をかしげた。
なぜ自分が呼び出されたのかがわからない。こちらの予想通りの部署が自分を呼び出したのならば、なおさらだ。おおよそ機動隊員とは最も縁遠い部署の名を頭に描いた亮は、促されてエレベーターに乗り込み上層階へ向かう間も、降りて薄暗い、絨毯敷きの廊下を歩く間も、そのことばかりを考えて、目の前を歩く背中にただ従った。
やがて男が立ち止まり、左手に位置する扉を示した。入れ、ということなのだろう。気味の悪い感覚をさらに覚えながらも、亮は一度男と視線を合わせると、そのまま無言でその扉に手をかけた。
