2・8

 その翌朝だった。弟が朝食の並ぶ母屋の居間に現れ、叔父夫婦に土下座をしたのは。引きこもっていた八ヶ月を謝罪し、これから自分が進みたいと思う道を話した。
 

 機械で作られた人間の女性の声が、目的地の駅名を告げていた。「桜田門」の響きに深い回顧の時間から我に返った亮は、人影まばらな車両内で一人、七人がけの座席から腰を上げた。
 

 自衛官になりたい。それも大学へ進学して、幹部候補となるのではなく、一般公募の二等陸士試験を受け、すぐにでも入隊したい。弟が口にした『やりたいこと』を、その場で初めて、育ての親と共に聞いた亮は、叔父夫婦たちとは別の意味で、唖然とした気持ちだった。あの気弱で、運動とは無縁だった弟の口から、まさかそのような言葉が出てくるとは、思いもしなかったからだ。
 

 とはいえ、自らなんでもいい、やりたいことを見つけ、それをやりたいと言い出してくれたことを、とにかくも嬉しく思った叔父夫婦は、その言葉を二つ返事で承諾した。泣いて喜ぶ叔母と、土下座した弟の背中に手を置いて励ます叔父の前で、亮は一人、笑顔も作れず、居間に置かれたテレビがしゃべる、『文科省に届けられた自殺予告文書』の報道をぼんやりと耳に入れながら、弟の姿にその差出人不明の文書を出した人物の姿を透かしていた。
 

 その時、不意に居間の畳から上げられた弟の目が、亮を見た。笑顔で彩られた表情に感情を付ける瞳は、前日の夜見た洞の闇ではなく、確かな温か味を持った光に輝いていた。
 

 いったい、どちらが本当の弟だったのだろう。それとも昨夜の姿は、弟の中で鬩ぎ合うなにか別種の姿だっただろうか。


 数時間前、再会した弟が去り際に残した、読み取れない言葉。確かなあたたか味を取り戻していた弟には似合わない、瞳の闇を思い出させる言葉。その答えを探り出すように始めた亮の回想は、有楽町線桜田門駅のホームに降り立った今もまだ、思考の半分以上を支配していた。
 

 墓地で、弟の背中を呆然と見送った後、過去の記憶を辿りながらも車を走らせた亮は、二十三区内に借用中の月極駐車場まで戻り、車を置いた。その足で自宅には戻らず、最寄り駅から電車に乗った亮は、数回の乗換えを経て、指定された一八○○時の十分前に目的の駅にたどり着いた。ここからは地下道を歩いて五分もかからないはずなので、指定に違わず間に合うことができそうだった。
 

 弟の中にまだ、部屋に引きこもった十六歳のときの闇が残っているのなら。あの月の輝きを全て飲み込んで、言ったとおりの石の塊に見せるほどの闇がまだ残っているのなら。弟はなぜ自衛官を目指そうなどと思ったのだろうか。あの弟だ。技術分野の知識習得はともかくとして、体力的な面で続かないかもしれない。そう思っていた兄の予想を遥かに上回る努力で、ひとまずの任期二年をそつなくこなし、継続して隊に残り、順調に三曹まで昇任している弟が目指そうとしたもの。もしくは今もって目指しているものとは、いったいなんなのだろうか。


 あの夜、あの月の下で、一切わからなくなった弟の心を、どうにか理解しようと思考を回転させながら、亮は駅の改札を抜け、地下道を歩いた。