2・7

 持参した数本の線香に火をつける。一瞬だけぬくもりを感じたマッチの炎を、香を握っていない手で仰ぎ消すと、半分を明に差し出した。


「本当に、兄さんの言った通りだ」


 家を出てから初めて口にした言葉は、拍子抜けするほど明るいものだった。あまりの驚きに半ば開いた口を閉じることも忘れていた亮の手から香を受け取った明は、しゃがんでその香を供えると、数秒の間手を合わせていた。


「いい夜です。あんなにきれいな月は、見たことがない」


 達観。なぜかそんな言葉が亮の中に浮んで消えた。澄みすぎているように思える弟の声を聞きながら、亮も香を供え、手を合わせた。


「兄さん。人は」


 亮の黙祷の時間を待っていたかのようだった。閉ざした瞼を開くとほぼ同時に声は降ってきた。顔を向けると隣にしゃがんでいた弟は立ち上がり、こちらに背を向けて空を見ていた。再会したときよりもずいぶんと西へ傾いた月の姿を見上げている。


「人は、変わっていけるものだと思いますか? 昨日よりも善良な方向へ」


 立ち直る機会を自ら模索しようとしている。その言葉は亮の心に落ちて、そんな波紋を描いて響いた。いつも傍にいた兄としてだけではなく、もう十代も終わりに近づいた今となれば、相談を打ち明けることのできる一人の男として、亮は弟の言葉に真っ向から答えたいと思った。


「もちろんだ。努力する必要はあるが......」


「地球との距離、気温の変化、他の天体との位置関係によって満ち欠けし、色も変わったように見えるあの月のように」


 質問をかけてきながら、明はその答えを聞いていないかのようだった。勇壮な詩でも朗読するかのような声は、やはり自らの心に巣食った闇を明かすには明澄でありすぎた。


「人は変わっていけるのでしょう。その本質は自ら発光することのないただの石の塊でも、善良な方向へ」


 夜空を背景に、明が振り返る。亮はその姿と言葉を見上げて、そうか、と気付いた。


 弟がこの場に来たこと。そして自分を同行させたことは、話を聞いてもらうためでも、聞かせるためでもないのだ。明は答えをすでに自身の中に持っている。その答えに進むための決意を固める、そのための場所であり、その証人に自分は選ばれたのだ。


「ああ。お前みたいにうまくは言えないが」


 亮はそういうと両親の墓に背を向けて立ち上がった。それでも拳一つは高い位置にある弟の瞳を見据えて、言葉を続けた。


「人は、変わっていけるんだと思う。周囲の人々の影響を受けて、昨日よりもいい方へ。そうだな。それこそあの月のように、自分では輝くことができなくても、手を取り合うようにして、少しでもいい方へ。そのためには......」


「やっぱりあなたは兄さんだ」


 そのためには、協調性、他者とまみれていく個人の努力も必要だろう。そう続けようとした亮の言葉は、明の清澄な声に遮られた。声自体は変わらず澄み渡った、透明なものだったが、そこになにかしら色付けされた印象を亮は感じた。


 見据えた瞳はわずかな月明かり、星明りさえ飲み込んで、依然何も映さぬ漆黒をしている。その感情のない瞳が恐ろしく、背けたくなる気持ちを抑えて、亮は真っ直ぐ見据えた。そこに一瞬、これまで見たことのない感情が過ぎった。


「兄さんなら、そういうだろうと思っていたんです」


 あれは落胆であるとか、失望であるとか、そういった種類の嘆息に似た光ではなかったか。言葉と共に満面の笑顔を亮に見せた弟の瞳に一瞬、いや、刹那、映ったように見えた、表情とはまったく正反対の感情が、亮の身体の内奥から体温を奪ってゆく。一瞬前、自分は弟の決意の証人に選ばれたのだ、と決定付けた自らの勝手な理解を、違うと否定をしつつも、すでに発してしまった言葉を取り戻す手段を、亮は知らなかった。


 弟は、なにかもっと深いところで、上辺のきれいごとではない言葉を求めていたのではないか。では、いったいどんな言葉を待っていた? どんな感情で今話している? おれになにを読み取ってもらいたかった? 亮の頭を異常な量の疑問符が埋め尽くしてゆくその前で、明は再び夜空に視線を戻した。


「兄さん、おれ、やりたいことができたんです」


 背中越し、こちらに向かっては響いてこない明の声を、亮はそれでもよく通る清明さと共に聞いた。先ほどまでよりも透明度が増したのではないかと思える声は、兄の言葉を待つこともなく、よどみない口調で続いた。


「だから明日からは、これまでの全てを正そうと思います。今までご心配をおかけしました」


 言いながら振り返り、深々と頭を下げた弟の姿にさえ、亮は疑問符を浮かべていた。これまでの全て、とはどこまでのことなのか。引きこもった八ヶ月あまりの時間なのか、それとも約十六年歩んできた人生そのものなのか。言葉に感情はこもっていても、その謝罪は本物なのか。
 

 これまで一番近くにいた。守ってきたはずの弟という存在。たとえ部屋に閉じこもりきりになろうとも、登校拒否しようとも、自分だけはわかっている、理解していると思っていた弟の考え、心がその瞬間にまったくわからなくなっていた。持ち上がった顔に穿たれた、暗い洞を思わせる一対の闇が、じっと亮を見つめる。それがたまらなく恐ろしく、冬の外気も、墓地の冷気も押し退けて、亮の身体から体温を奪い去った。


「ああ、がんばれよ」


 かろうじて動いた顔の筋肉は、笑顔と兄貴風を吹かせる言葉を吐き出させた。


 違う。おそらく、違う。


 警鐘を鳴らす心の灯火は、闇の冷気に完全に吹き消され、その亮の目の前でまた満面の笑みを見せた弟の表情と、その直後見上げた、西の空にかかる巨大な月の輝きだけが、亮の脳裏に強く、痛みを感じるほどに強く、焼け付いた。