川名を背にして歩く足には、十畳ほどの部屋が異常に広く思えた。絶望的に遠く感じる出入口のドアノブに、今にも附してしまいそうな身体を預けてしがみついた亮は、「失礼しました」と、謝罪と挨拶が綯い交ぜになった言葉を残して、仮設小隊長室を後にしようとした。
「高宮巡査長、登庁命令が来ている」
口早に告げられた言葉はわずか数秒前、不器用さを隠しきれない無骨な男の柔和な声ではなく、文字通り鬼と恐れられる小隊長の声だった。あまりにも突然の変貌に、反射的に振り返って踵を揃えた亮も、その瞬間には陰惨とした思考が消え、小隊長から指令を受け取る、一人の特殊部隊員に戻っていた。
「明日。時間は一八〇〇。詳細は正面玄関で迎えが待っているそうだ」
奇妙な命令に聞こえた。自分の直属の上司である川名に呼び出しの詳細を伝えず、下命だけさせた何者かがいる、と言う事になる言葉だったからだ。一瞬その疑問を表情に出してしまった亮は、しかし次の瞬間には、極秘に呼び出される理由がある我が身を理解して、その疑問を消し去った。
公の目の下で犯人、人質、そして突入した隊員まで全員が死亡した、特殊急襲隊始まって以来の不祥事。その当事者である男が辞表を書いて警察組織を去ろうとしている。組織上層部が恐れるのは、あの事件の情報流出だ。取り立てて責任を問われることのなかった亮が今、なぜ職を辞するのか。上層部ではその実情を把握して置きたいのだろう。緘口令の徹底のための誓約書でも書かせる気なのかもしれない。
「可能か、高宮巡査長」
小隊長の声で、渦巻き始めた『組織』と言うものに対する陰鬱な思考を止めた亮は、「は」と挙手敬礼で答えた。
直立不動の姿勢で真っ直ぐに向けられたその目が、立ち上がって答礼する川名の視線と交差する。しかし、特殊急襲隊に配属されて以来、自分をここまで育ててくれた恩人でもある人の姿を、亮は長く正視することはできなかった。
亮を班長に抜擢したのは、川名だった。その時川名は亮のことを、自分に似ている、若いわりに無骨だ、不器用だ、と笑い、だがその無骨さこそ、この部隊には必要だ、とも言った。ゆくゆくは小隊長の自分の椅子をお前に任せたいとも言い、川名は豪快に笑っていた。
それが、あの事件で狂ってしまった。無骨な男通しが膝をつき合わせて、取り返すことのできない過去を、言葉にもできずにいるこの部屋の空気が、川名よりひと回り以上歳若い亮には、耐えがたい重さとなって身に圧し掛かっていた。
そうか、悔しいのか。
自分が起こした判断ミスで命が失われたことが悔しい。その事後処理で、本来ならば自分が償わなければならないけじめを、他の人間が償っている事実が悔しい。多くの人々から笑顔を奪い、将来を奪った自分の未熟さが悔しい。自らに圧し掛かる重いものの正体に、今さらながら気付いた自分に、亮はいっそう歯噛みしていた。
あの、誰からも偉大と言われる父に、自分は似てなどいない。ただ憧れて、その側に行きたくて、真似をしていただけだ。思い当たった現実に亮は、それ以上支えることのできなくなった身体をどうにか動かし、室外へ身体を押し出した。実際の体重以上に、肉体は重く感じられた。
