1・10

 その笑みを見たからだろうか。はきはきと話していた明の言葉が止まり、視線をわざと外しているこちらに窺う眼を向けた。右手に握っていた制帽を左腕と胴の間に手挟み、改めて笑顔を見せた。


「兄さんは、今日は非番ですか?」


 一度、胸が強く脈を打つ音を聞いた。それを合図に、亮は全身を駆け巡り始めた血の流れを熱として感じていた。身体そのものが心臓になったかのような激しい動悸の音と、毛穴からの呼吸がわかるほどに熱を帯び始める身体。紅潮してゆく表情は隠し切ることができず、沸騰した脳は弟の質問に取り繕う、偽りの答えを探すだけの余力を与えてはくれなかった。


「......辞めたんだ」


 つぶやくよりも小さな声は、それでも弟にしっかりと届いたようだった。以前よりも遥かに男らしくなったその顔の下を明らかな驚愕が掠め、返す言葉を失った弟を視界の隅に確認した亮は、その一言を皮切りに、自身でも押しとどめることのできなくなった言葉を吐き出していた。


「お前も知ってるだろう? あの事件だよ。銀行が爆破された、あの事件。あの現場で、警官が二人死んでる。爆発に巻き込まれて」


 本当は拳を、頭を、叩き付けたい地面に向けて、言葉を叩き付ける亮に対して、明は身じろぎ一つしなかった。「おれの班の人間だったんだ」と亮が辞職した理由を口にした時も、明はただ黙っていた。


「おれが死ぬはずだったんだ。おれが突入して...... その指示を誤った。死ななくていい人間が、二人も死んだんだ。おれのせいで」


「事件のお話は伺っています」


 その声は、やはり凛と響いた。静寂を汚し続けた自分の憾み言とは大きな違いだ、と再び自嘲した亮は、そこで初めて真っ直ぐに弟の視線と向き合った。


 鏡を見ているかのような二重の瞼。その下、男にしては長いまつ毛に縁取られ輝く、鳶色の瞳。普通の人の黒目より、ずっと茶色く見える瞳も、自分と鏡映しのようだった。ただ違うのは、拳一つ分は上にある位置していること、そして弟の瞳は自分とは違う、確かな輝きを持って瞬いているように見えることだった。その輝きを未来への希望や期待と読み取ったとき、同時にそこに、暗く影を湛える瞳を思い出してしまった。


 まったく何も映さない、暗く澱んだ重油のような色をした瞳。かつて見たその瞳を思いがけず重ねた亮は、やはりといった感のある恐怖心の隆起を抑えることはできなかった。


「詳しく伺ったわけではありませんので、なんとも言いがたいのですが、あの場では兄さんの判断は正しかったと思います。爆発に巻き込まれた二人の指示下命時の現場での位置。そして兄さんの対象物への距離を考えれば、あの場では突入を任せるのが妥当です。突入が遅れれば、後援で陽動を行った他の班との連携が崩れ、さらに別の被害が」


「そういうことをじゃない! おれが言っているのは!」


 舞い戻った霊園の静寂が、痛々しいほど感じられた。上官への戦術演習報告を行う、硬質な口調の弟を一蹴する怒鳴り声を上げたのは、そこに人としての心が存在しなかったからに他ならない。それは、きらきらと輝く若い瞳に重なった、あの澱んだ薄暗い瞳が示す、人ならざるものの言葉と聞こえた。


 その輝きは偽りなのか。おれだけが見た、おれだけが恐怖と感じたあの瞳を、お前は今も持っているのか。亮の意識を過去の記憶が這い回り、蘇った恐怖心、見知ったものを突然理解できなくなった疎外感が、一度は高まった猛烈な身体の熱を急速に奪ってゆく。その時だった。


「それでも、ですよ」


 そうつぶやかれた声は、それまでの硬い音ではなかった。歳相応の、気弱だが心根の優しい、亮のよく知った虫も殺せぬ弟の声、そのものだった。


 怒鳴った拍子に外れかけていた視線を戻すと、モスグリーンの制服の上、坊主頭の弟はにこやかに微笑んでいた。


「あの事件で、現場にいた誰かに不備があったとは、自分は思えません。兄さんが思い悩んでいるのは、兄さんの責任感の強さからだとは思います。でも誰も、亡くなられた二人の方だって、兄さんの取った行動に間違いがあった、罪があったとは思っていないはずです」


 神童と呼ばれ、その呼び名に似合うだけの努力をした、実際には秀才であった弟の、弟らしい頭で考える論理的な話し方。近年の陸自での生活がその口調にさらに硬質な印象を与えてはいたが、懸命に、一つ目から起因と要点を探り、恐れることなく結果を口にするその強さ、時として脆さに直結する性格は、変わっていなかった。弟の、弟たる部分を見た思いで、一瞬前まで抱いていた不定形な恐怖心が霧散してゆく。


「それでも罪がある、責任がある、と兄さんが言うのならば、自分はもう、十分に償ったのではないか、と思います。そうして思い悩んできたのなら......」


 頭のいい弟は、論理だけで人の心が説明しきれないことを十分に知っている。それでも相手に自分の考えを理解させるために、熱心に言葉を探す弟の姿が今の亮にはうれしく、ありがたかった。


 事件後、多くの人が今の弟と同じように、事件現場の実情を説明し、お前に罪は無かった、不備は無かった、と告げてくれはしたが、その全てが亮には形骸的に聞こえていた。残されたものにかける、当たり障りのない言葉。彼らが口にしてきたものは、そういった言葉だったように思う。今の弟のように、言葉を探しながら、選びながら、どうにか自分の思いを伝えようとするその熱量を、彼らの言葉は欠いていたのだ。向き合った瞳の輝きに、真摯な光を見た亮の頬を、気がつくと涙が伝っていた。


「兄さんは、償ったと思います」


 その一言を、強く言い直し、今一度、屈託ない笑みを作った弟の姿が輝いて見えたのは、瞳を満たした涙のせいでも、乾燥した冬の日差しのせいでもなかったはずだ。そう思った亮の意識はもう、目の前で輝く瞳の中に弟と自分の、暗い過去の澱んだ記憶を思い起こすことはなくなっていた。


 背にした父の墓から、亮はそっと背中を押されるような温かさを感じた。振り返るとそこに父の笑顔があるように思えて、亮はそのことに気付かせてくれた目の前の弟に、歩み寄る一歩を踏み出した。