1・9

 また朦朧とした視界の中で、弟と、もうひとつの制服姿が向き合い、なにか言葉を交わしている。もう一人の制服は、ここからでは肩章が見えにくく、はっきりとしないが、おそらく尉階以上の階級章をつけていた。すらりと長い手足と、がっちりとした肉体が制服の上からうかがい知れる巨躯の持ち主だった。制帽を取って手挟み、挙手の礼をした肉厚の掌。本人の生真面目さがそのまま現れた刈り上げた髪。その下、襟元へと伸びる太い首筋は、男が訓練以上に自らの身体を苛め抜いていることを顕著に示していた。


 職業軍人。公務員の一職という感覚が強く語られる自衛隊にあって、昨今では見なくなった軍人気質を纏った男だ、と亮はその男から流れてくる空気に、川名小隊長や歴代の班長、そして父、浩一郎のような、暴動が起きればその前面に立ってきた男たちと同じ空気を感じた。
 

 挙手敬礼の手を額から離した男は、脇に手挟んでいた制帽を深く被り直すと、足早にその場を離れていった。それまで二人の背後に隠れて見えなかった墓石に『吉岡家』の墓碑銘を見、亮は再度離れてゆく姿を視界に捉えようとしたが、整然と立ち並ぶ墓石に紛れて、尉以上の階級を持つ男の姿は捉えられなくなっていた。


「今からいきます!」


 静寂を保ち続ける霊園に再び明の声が響く。職業軍人と弟という、兄としては違和感を覚えずにはいられない組み合わせに驚き、状況の判断がつかない思いを味わっていた亮は、ああ、と生返事を返すのが精一杯だった。


 自分の知っている弟ならば、ああいうタイプの男とは付き合わないだろうし、付き合えないだろうと考える頭があり、それを埋めるには、ぽっかりと空き過ぎた時間の空白が存在していることに改めて気付く。大人になったのだな、という他人行儀な言葉だけがどうにか浮んだが、それが兄弟に向けるものではないとわかって、気が滅入る思いを味わったときだった。


「ご無沙汰しています、兄さん」


 息せき切った声が背後からかけられ、振り返ると墓の入口に弟が立っていた。ここまで走ってきたのだろう。言葉に強く吐き出す息の混じる調子で、それでもはっきりと言い切った弟は姿勢を正すと、深く被った制帽に、ひじを折った右手を当てる仕草をして、踵を打ち付けた。鍛え上げられ、何度となく強力に指導された、見本のような敬礼だった。


 弟と会うのは亮が高校を卒業して以来になる。その後、警察学校へ進み、寮生活を始めてからは、顔を合わせることが無かった。その間、電話でも手紙でも電子メールでも、一切やり取りをしてこなかった兄弟の間には、たっぷり六年以上の空白が存在していた。亮が外部からはおろか、警察機構内部でも秘匿された特殊急襲部隊の一員となったこと、そして弟もまた自衛官の道へ進み、寮生活を始めたことがその空白を生んだ要因であったが、亮は自身の中にもう一つ、まったく違った要因を持っていることに気付いていた。そしてその要因が今、こうして弟と向き合った状態にあっても、視線だけを心持ち背け、伏せさせていることにも気付いていた。


「今日は、父さんの墓へ?」


 敬礼を解いて制帽を取った弟の瞳を、やはり見ることができなかった。最後に会った時と同じか、と口内に生まれた言葉を吐き出すことはできず、亮は明の凛と響いた声を聞いた。どうにか、ああ、とだけ答えた亮だったが、やはりその視線は真っ直ぐに弟の瞳を見ることができなかった。


「そうですね。兄さんはいつもここへ来ていましたからね」


 底冷えする空気を震わせて、静寂を保ち続ける霊園に響く弟の声は硬質で、勇ましく、頼もしささえ感じさせるものだ。陸自での数年がそう変えたのだろうが、兄としてずっと見続けて来た、口数少なく、おとなしい少年という弟の面影とはあまりにも逆行した姿だった。


 特に自分が家を離れる少し前までの姿とは。そう結びかけた思考とは別の部分で、亮はどうにかそれなりの会話をしようと必死に言葉を探していた。


「久しぶりだな。お前も墓参りか」


 引きつった笑顔が、表情に張り付いているはずだった。頬の筋肉の痙攣を確かに感じつつ、亮はようやく搾り出した精一杯の兄貴面を声にした。


「誰か一緒だったみたいだが、よかったのか?」


「ええ。自分の上官だった方の墓参です。といっても、佐官でいらっしゃったので、そこまで面識はなかったのですが。先ほどの方はその吉岡三佐のご友人で......」


 吉岡三佐。どうやらそれがあの真新しい墓石の下に眠っている人物の名前らしかった。しかしここ最近で、幹部域の自衛官が亡くなった話は耳にした記憶が無い。いったい何者の墓なのか。
 

 相手の会話から読み取れる最低限の情報で、最大限の状況判断を行おうとする、そんな職務上の癖が、数年ぶりに再開したたったひとりの肉親相手にさえ働いていた。
 

 もうその必要もないのに。そう考えた頭が急速に熱を失っていくのを感じ、亮は自然と自嘲の笑みを浮かべた。