1・8

 どのくらいそうしていただろうか。わずかに持ち上げた視線が、腕時計に十一時近い時間を認めた。すっかり燃え尽きてしまった香の香りはすでになく、朦朧とした意識が亮を支配した。それでも立ち上がると、身体は父の墓に敬礼をしていた。


 それは反射に近い敬礼だった。


 まだここに来るべきではない。特殊急襲隊を辞し、生きる指針すら定まらぬ自分が、ここへ来てはいけなかった。非礼を詫びる敬礼で踵を揃えた亮は、もう涙はない瞳で墓石を見つめた。


 墓石は何も言わず、つい先ほど幻視した両親の笑顔もない。またここへ来ます。今度はあなたたちに恥じることのない自分になって。その言葉を強く胸に刻み、亮は直立の姿勢を解いた。


 その時だった。一点に硬直していた視界が広がり、両親の墓石越しに別の墓参者の姿が見えていたことに、亮は初めて気付いた。


 平日とはいえ、都会ではないこの土地では、午前日中の墓参りもそう珍しい光景ではない。むしろ父の墓前へと歩いた時、誰にも会わなかったことのほうが不思議だった。それゆえ亮の目がその墓参者たちに思いがけず集中したのは、まさか自分以外の誰かが霊園内にいるとは思っていなかった、という理由ではない。二人いる彼らの姿が、この霊園では、いや、そもそもこの土地では、あまりにも浮き立っていたからだ。


 整地された小高い山の頂上、見晴らしのいい斜面側の最前列に、両親の墓はある。その奥に三列、等間隔に墓石の列が並び、見渡してみれば各所から線香の白い煙が立ち昇っていた。その煙が薄い靄のように立ち込める中、ここからは二列の墓石郡を挟んで、ひとつの墓石に向かう二人の人物は、共に詰襟の制服で固められていた。


 一瞬、中高生に見られる学生服を思い起こした亮だったが、その制服が濃い緑色をしていたこと。学生のそれにあるはずのない肩章を見たこと。二人の姿が制服の上からでもわかる完成した成人の肉体であったこと。その全てから亮はすぐにある答えに思い当たった。


 陸自が正装して墓参りだと? 日本の国家防衛の一端を担う陸上自衛隊を象徴する、濃緑の制服の背中が二つ、明らかに真新しく、黒光りする墓石に向かっている。


 異質なものに対する興味がそうさせたのか、気が付くと亮は、呆然とその背中を見つめてしまっていた。何かを話し込んでいるのか、微動だにしない二つの背中が振り返ったのはしばらく経ってからのはずだが、半ば呆けた頭でいた亮には、それがあまりに突然のことのように見え、動揺を隠すこともできず、制服の二人と向き合ってしまった。


 距離にして三十メートル強。五十メートルはない相手との間では、じっと監視する目を向けるこちらの様子が、その表情まで十分に見えてしまったはずだ。他意はなくとも、ばつの悪い雰囲気に晒された身が、慌てて視線を外して背を向けようとした時だった。


「兄さん!」


 意外な声は、その二人からだった。背けかけた身体が弾かれたように戻り、今度は凝視する眼を向けた亮の視界の中で、制服姿の右の人物が目深にかぶっていた制帽を取って、深々と頭を下げた。持ち上がったその表情は、見覚えがある、などと言う領域のものではなかった。


「明......?」


 だが、なぜ彼がここにいるのか。もう六年近く会っていない弟、高宮明の今を想像しようとして、亮は自身の頭に自分たち兄弟を示す言葉を次々に呼び起こした。


 運動の得意な兄。神童とまで言われた秀才の弟。誰が見ても仲がよく、いつも弟を守ってきた兄。子供の頃、肝試しと称して、この霊園に夜、忍び込んでは、この場所から見つめた大きな月。そこで交わした会話。ずっと守ってきたはずなのに、いつからかわからなくなった弟の心。そして、あの小さな部屋に閉じこもった弟。


 断片的に、今日のふたりを形作るまでの言葉と映像が浮んでは消えて行き、最後に目の前の弟と重なる。なぜ、ここでなにをしている、と問う前に返された、幼少期の姿を十分に思い出させる屈託の無い笑顔は、亮に問う全ての言葉を消失させた。反対に「待っていて下さい!」と叫んだ弟の言葉に圧されて、兄はただどうしようもなくその場に立ち尽くすのみだった。