温度のある言葉

こころの奥の、いちばん真ん中に、たいせつな人がいる。
それは例えば、恋人かもしれないし、両親かもしれないし、
飼っているペットかもしれなければ、大事にしている文房具だったりも
するだろう。
それがこころの奥の、いちばん真ん中で、静かにたたずんでいる。
何をするわけでもなければ、何を主張するわけでもない。
静かに、ほほ笑んで、ときに照れくさそうにはにかんで、そこにいる。
そういう人の言葉を、聴いていたい。
こころの奥の、いちばん真ん中に、「たいせつ」を置いた人。
そういう人の言葉はいつだって、まっすぐで、尊くて、あたたかい。
温度のこもった言葉は、どんなにありふれていても、どんなに使い古されていても、
ちゃんと、とどくのだ。
「ありがとう」
「がんばって」
「応援してる」
笑ってしまうほどにたくさん聞いてきた言葉だけれど、
温度があれば、それは、ちゃんと、とどくのだ。
そして、ぼくは、とどけたいと、願うのだ。
デューク | 引き算の極み
引き算の考え方、というものがあります。
デザインの話で言えば、
まず作ります。
そして、それを推敲していきます。
ああだこうだとうなり、ああでもない、こうでもない、としていきます。
その過程で、要らないものを、どんどんそぎ落としていくのです。
そうすると、必然的に、とてもシンプルなもののみが残ります。
無印良品であるとか。±0であるとか。60visionのD&DEPARTMENTであるとか。
まあ、いろんなデザインは、シンプルであり、余計なものがついていない状態になります。
これは、簡単に見えて、実はすごく難しいことだったりします。
ものを作るときに、ガタゴトとモノを付け加えていく「足し算」はよくします。
というか、基本です。
そうして作ったモノが、まーだ何か足りないなー、ピンとこないなー、とか言って、
ああだこうだ付け加えていくことも、たくさんします。
でも、そこで、一歩引いてみる視線、逆にこれは要らないんじゃないの、っていう感覚。
それを持つのは、並大抵のことではないのです。
思うに。
同じことが、物語においても言えるのではないか、と。
ふと思ったのです。
エピソードを追加していく。
描写を増やしていく。
キャラクターを増やしていく。
足し算です。
でも同様に、引き算もあるはずです。
エピソードを削る。
描写を削る。
キャラクターを削る。
シェイプアップされた文章は、元がどれだけの大長編であったとしても、
おそらくは20枚、せいぜい50枚程度のなかに、すべてが収まってしまうのではないでしょうか。
先日、江國香織さんの短編集「つめたいよるに」を立ち読みしました。
僕はこれをすでに持っていて、4、5回は読んでいると思うのですが、また読みました。
読みたかったのは、一番最初の物語、「デューク」。
僕はこの短編、いや、掌編を、世界最高の物語のひとつ、として捉えています。
たぶん20枚ぐらいなように思うのですが、この中に、幸せなことがたくさん詰まっているのです。
もし宜しければ、お時間のあるときに、ぶらりと本屋に立ち寄って、立ち読みしてみてください。
ほんの5分。
ほんの5分で、なぜ僕が「世界最高の物語のひとつ」などと言っているかが、理解できると思います。
もちろん、趣向に寄りますけどね。
僕の感性でいえば、本当に、「デューク」を超える物語っていうものが、世界にいくつあるのか分からないです。
それぐらい、好き。
で、話ちょっとズレましたけど、そういうことですよね。
あの枚数の中に、落とし込めるはずなんです。小説も。
ちょっと、考えてみたいよなぁ。
などと思いながら鼻歌を口ずさむ、心地よい天気の今日でありました。
その手がつかむもの
走っている、きみを見ていた。
笑っている、きみを見ていた。
ぼくはきみに会いたくて、手を伸ばした。
でもその手がつかむのは、空だけで。
…………
きみよ どこへ 消えた?
…………
たくさんの思い出があった。
いくつもの道を、一緒に歩いた。
ぼくはきみが好きだった。
この空の下、きみがどこかで、元気で暮らしている。
そのことを思うだけで、ぼくは前に進むことができた。
…………
きみよ どこへ 消えた?
…………
ぼくはいくつもの道を走り、いくつもの屋根を越え、きみをさがした。
あらゆる川を越え、あらゆる峠をくだり、きみをさがした。
走っているきみがみたかった。
笑っているきみがみたかった。
でもきみは
…………
でもきみは
…………
でもきみは
…………
ぼくは 空を見上げた。
意味はなかった。
でも、きみを見つけた。
きみは、空にいた。
あそこでもなく、ここでもなく、そっちでもなく。
きみは、空にいた。
…………
ぼくはきみに会いたくて、手を伸ばした。
その手がつかむのは、空だった。
センスがない
僕は、たまに、「センスないんじゃないの」と言われる。
それはもう、はっきりと、言われる。
仕事なので、むしろそういうことは言ったほうがいいと自分でも思うので、言葉自体にはなんとも思わない。
でも、やはりそのときは、ショックだ。
「センスないよ」
これは、Webデザイナーをやっていて、最低の評価であることは間違いない。
作り上げたモノに対しての、かなり広範囲の否定であることは間違いない。
ここで考えなくてはならないのは、その言葉は、センスのことを言っているけれど、
臆面どおりに捉えてはいけないということだ。
センスない=本当にセンスそのものがない ということではないのだ。
僕がその言葉を受けるとき、たいがいが、方向性を見誤っている。
すごくカンタンに言えば、高級感が必要なところで、チープさを出してしまったりとか。
デザイナーとして意図はあるんだけれど、その意図が間違っていたりする。
これはもう、どうしようもない。根っこの間違いだ。
すべてをひっくるめてしまえば、「=本当にセンスそのものがない」でもいいけれど、
それをもっと具体的に言うと、「方向性を誤ってるよ」ということだった。
さて。
僕はその言葉を受けて、作り直す。
考え直し、作り直し、また考え直し、作り直す。
そうすると、「お、良くなったね」と言ってもらえる。
その言葉は、自分で「良くなった」ことを自覚していても、すごく嬉しい。
僕は、デザイナーとしての経験がまだ圧倒的に足りていないから、
よく怒られるし、センスないという刺激的な評価もしょっちゅういただく。
方向性を間違うというのは、デザイナーに限らず、あらゆる点において、ダメなことだ。
でも僕は、それをやってしまう。
少しずつその感覚を磨いているとは思うのだけど、まだまだなので、
もっと、もっともっともっと、がんばらないといけない。
そして、がんばりたい。
向いている、向いていない、の評価は、まだ僕にくだせない。
その域にまで、僕は達していない気がする。
どうか、がんばらせてください。
がんばります。
自分の薄情さと、宗教について
ちょっと思ったことを、散漫に。
僕がなぜ、SOPHIAが好きだろうが、ストレイテナーが好きだろうが、
エルレが好きだろうが、YUKIが好きだろうが、
また音楽に限らず、
江國香織が好きだろうが、村上春樹が好きだろうが、なんだろうが。
根本的にハマらないのは、なぜなんだろうか。
上に挙げたものは、ぜんぶ好きだよ。間違いなく大好き。
だけど、何だろうな、ものすごくそこに傾倒することはないんだよねぇ。
例えば若かりし頃、中学生、高校生、情熱にあふれていた頃。
あれから時が経ち、良くも悪くも大人になった僕は、
それらへの情熱が薄れ、前ほどぐぐっと前のめりになることはなくなった、のだろうか。
そうでもないみたい、なんです。
思い出してみるに、学生の時代でも、やっぱり強烈に何かを欲するというのがなかった、
そういう情熱的な若さみたいなものを、若いときから持ってなかった。
まあ、そりゃあ、もともとないんなら、この年で出てくるわけもないって話で。
なぜなんだろうなぁ、と思うんです。
そんなにも、僕は人生において薄情であったのか。
文字通り「薄情」。興味が欠落している人間。なんだろうか。
まあ、でも正直な話、決定的に「薄情」である事実は否めないと思う。
僕は「やさしい」とかよく言われるけど、「やさしさ」と「薄情」であることは同居する。
むしろ、「薄情」であるほうが、よりやさしく出来る場合も多いとすら思う。
ひどい話だけど、目をそらさずに自分のことを考えてみるに、それは一理ある気がする。
でもそれだけじゃなくて、いま、ぼんやり思ったのは、
僕はまるっきりの無宗教であるし、また、宗教を信じている人を、
申し訳ないんだけれど、少し違う目で見ている自分がいるのを理解している。
もちろん、僕にその宗教観を押し付けてこないのであれば、どうぞご自由に、
それであなたが救われるのならば、僕もあなたがそれを信じることを望みます、ってなもんで、
信じている人をどうのこうの言うつもりはない。
でも、思うのは、
僕はおそらく、興味であるとか、やりたいことであるとか、
逆に嫌いなものであるとか、善悪の基準であるとか、
大きな枠で言えば「価値観」とされるもの、
それが他者によって変わるのは、イヤなのだろうと思う。
ずっと昔からそうだったけど、最近、それを言語化するのが出来るようになったので、
より強くそう思うようになってきた。
僕は、押し付けられるのが大嫌いだ。
自分の考えというものがあり、好き嫌いがあり、そしてその先になりたい自分がいる。
SOPHIAのインタビューを読んで、彼らが好きな本の話をしたとする。
でもおそらく、僕はそれを読まないし、読もうとも思わないだろう。
江國香織が誰々に影響を受けたといわれても、そうなんだ、で終わってしまうと思う。
ある熱狂的なファンがいるバンドとか顕著だけど、
ある種、どこか宗教じみてくるところもあって、
僕は別段、それが好きな人たちを、どっちかっていうと羨ましい気持ち、
そうはなれない僕が、そうなれているみんなを見て「いいなぁ」っていう感覚で、見ている。
否定とかするつもりはサラサラなくって、
なんで僕はそうなれないのかな、って自分に問いかけてみたら、
思いがけず答えは深いところにあり、取り出してみると、ちょっと無視できないものだったんで、
ちょこっと記事にしてみたという感じです。
個人的には、そうはなれなくて、羨ましいけど、でもそうなりたくない理由もはっきりしているから、
このまま平行線なんだろうな、って思うし、
また今後の人生でも、強烈に何かに傾倒するということが、おそらくないんだろうな、とも思う。
なんとなく生煮えの文章で失礼いたしました。



